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プロスペクト理論が示す投資家の心理:損失回避バイアスと非合理的な行動

Tags: プロスペクト理論, 損失回避, 投資心理, バイアス, 行動経済学

投資判断に潜む心理バイアス:プロスペクト理論の視点

投資の世界では、市場データや企業の財務情報といった客観的な情報に基づいた合理的な判断が重要であるとされています。しかし、実際の投資家の行動は、必ずしも合理性のみに基づいているわけではありません。そこには、様々な心理バイアスが影響を及ぼしています。特に、ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーによって提唱された「プロスペクト理論」は、不確実な状況下での人間の意思決定の非合理性を説明する上で非常に示唆に富む理論です。

この理論は、従来の期待効用理論とは異なり、人間が確率や利得・損失をどのように主観的に評価し、意思決定に結びつけるかをモデル化しています。そして、その根幹にあるバイアスの一つに、「損失回避バイアス」があります。この記事では、プロスペクト理論、特に損失回避バイアスが投資判断にどのように影響し、時に非合理な行動を招くのかを解説し、その影響を認識し乗り越えるための考え方について考察します。

プロスペクト理論とは何か

プロスペクト理論は、人間が不確実性のもとでどのように選択を行うかを記述する行動経済学の理論です。その主な特徴は以下の二点です。

  1. 参照点依存性: 人間は絶対的な富の量ではなく、現在の状況(参照点)からの「変化」(利得か損失か)によって価値を評価します。
  2. 価値関数: 利得と損失に対する主観的な価値は非対称です。特に、同じ絶対額であれば、利得から得る喜びよりも、損失から受ける苦痛の方がはるかに大きい傾向があります。これが「損失回避」です。価値関数は参照点から見て利得の領域では上に凸、損失の領域では下に凸のS字カーブを描き、損失側の傾きが利得側よりも急峻です。
  3. 確率加重関数: 客観的な確率をそのまま受け入れるのではなく、低い確率は過大評価し、高い確率は過小評価する傾向があります。

この理論の中心にある損失回避バイアスは、「人は利得を追求するよりも、損失を回避することを強く優先する」という人間の基本的な心理傾向を示しています。

損失回避バイアスが投資判断に及ぼす影響

損失回避バイアスは、投資家の意思決定において様々な形で非合理な行動を誘発します。

1. 含み損の塩漬け(損切りできない)

最も典型的な例の一つが、含み損を抱えた状態の銘柄を売却できずに持ち続けてしまうことです。プロスペクト理論によれば、損失を確定させることによる苦痛は、同額の利益を得る喜びよりも大きいため、投資家は損失を確定させる行為(売却)を強く回避しようとします。

たとえ、その銘柄を保有し続けることが合理的な判断ではない場合(例えば、企業のファンダメンタルズが悪化している、より魅力的な投資先があるなど)でも、「売却して損失を確定させる」という痛みを避けるために、「いつか株価が戻るだろう」という希望的観測や根拠の薄い信念にしがみつき、非合理的に保有を継続してしまうのです。これは、損失の領域ではリスク選好が高まる傾向(損失を回避するために、より大きなリスクを取ってでも元の状態に戻ろうとする心理)とも関連しています。

2. 含み益の早期確定(利確が早すぎる)

損失回避バイアスは、含み益に対しても影響を与えます。利得の領域ではリスク回避的になる傾向があるため、投資家はせっかく得た利益が消えてしまうことを恐れ、比較的少額の含み益であっても早期に確定させてしまうことがあります。

これは、「利益を確定させて安心したい」という心理が働くためです。しかし、これにより、その銘柄がさらに大きく成長する機会を逃してしまう可能性があります。本来であれば、企業の成長性や市場環境の変化といった客観的な基準に基づいて売却判断を行うべきですが、損失回避バイアスが早期の利確を促し、潜在的なリターンを制限してしまうのです。

3. リスク選好の非対称性

プロスペクト理論の価値関数が示すように、人間は利得局面ではリスクを回避する傾向が強く(確実な小さな利益を好む)、損失局面ではリスクを受け入れる傾向が強まります(損失を確定させるよりも、挽回の可能性がある不確実な大きなリターンを狙う)。

これを投資に当てはめると、以下のようになります。 - 利得局面: 利益が出ている状況では、利益を失うことを恐れて安全策を取りがちになり、本来取るべきリスクを取れない可能性があります。 - 損失局面: 損失が出ている状況では、「この損失を取り戻したい」という思いから、よりハイリスクな投資に手を出したり、損切りをせずにナンピン買いをしてさらに損失を拡大させたりするリスクが高まります。

このようなリスク選好の非対称性は、投資ポートフォリオ全体のバランスを歪め、長期的なパフォーマンスに悪影響を及ぼす可能性があります。

損失回避バイアスを認識し、克服するためのアプローチ

損失回避バイアスは人間の根源的な心理に根ざしているため、完全に排除することは困難です。しかし、その存在を認識し、意識的に対策を講じることで、その影響を最小限に抑え、より合理的な投資判断に近づけることは可能です。

1. 事前のルール設定(投資計画の策定)

最も効果的な対策の一つは、感情が判断を鈍らせる前に、明確な投資ルールや計画を事前に策定しておくことです。

これらのルールは、相場が大きく変動している状況で感情的になりやすい時に、冷静な判断の基準となります。計画は文書化し、定期的に見直すことが望ましいでしょう。

2. ポートフォリオ全体の視点を持つ

個別の銘柄の含み損益に一喜一憂するのではなく、ポートフォリオ全体としてのリスクとリターンを評価する視点を持つことが重要です。個別の銘柄の損失が、ポートフォリオ全体の多様化やリスク管理の観点から許容できる範囲内であれば、過度にその損失に固執する必要はありません。また、ポートフォリオ全体のリバランスを定期的に行うことも、損失回避バイアスによる非合理な判断を防ぐ助けとなります。

3. 投資ジャーナルをつける

自身の投資判断とその結果を記録することも有効です。どのような理由でその銘柄を選び、どのような価格で売買し、結果どうなったかを記録することで、自身の思考プロセスや過去のバイアスによる失敗パターンを客観的に振り返ることができます。これにより、「あの時、損失を確定していれば被害は最小限だった」「あの時、利確を我慢していればもっと大きな利益が得られた」といった学びを得て、将来の判断に活かすことが可能になります。

4. 「参照点」を意識する

プロスペクト理論が参照点に依存することを示しているように、我々の価値評価は現在の状況に影響されます。購入価格を参照点としがちですが、必ずしもそれが唯一または最適な参照点ではありません。例えば、現在の市場価格を新たな参照点として、「今、この銘柄を新規に購入するか?」「この資金を他の投資に振り向けた方が良いか?」といった問いを立ててみることで、過去の購入価格に囚われすぎず、より客観的な視点で保有の継続や売却を判断できるようになります。

まとめ

プロスペクト理論、特に損失回避バイアスは、投資家が直面する最も一般的で影響力の大きい心理バイアスの一つです。含み損の塩漬けや含み益の早期確定といった非合理な行動は、このバイアスによって引き起こされることが少なくありません。

投資成果を向上させるためには、自身の判断にこのようなバイアスが潜んでいる可能性を常に認識することが出発点です。そして、事前にルールを設定し、ポートフォリオ全体として捉え、過去の経験を記録・分析し、「参照点」を意識的に調整するといった具体的な対策を講じることで、感情に流されにくい、より客観的で合理的な意思決定を目指すことができるでしょう。心理バイアスとの向き合い方は、投資家として成長するための重要なステップと言えます。